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M55: Hungary

M55 Hybrid Bike.

M55 bike is a luxury hybrid bicycles. The major parts are custom made by Titanium and carbon fiber, utilizing technologies and materials used in the Formula One and electric supersportcars. 


Mac: UK

Mac Motorcycles.

創業者 Elliys Pitt による、1950~60年代のシンプルなオートバイを現代的に解釈した構想を、Xenophya Design の Mark Wells と Ian Wride の協力によって開発した。エンジンには Buell の 'Blast' 500cc 単気筒エンジンを採用し、Harley のパワーと Ducati のハンドリングを両立させた Chopper や Bobber を指向している。


Magni: Italy

モト・グッチのチューナー。


Madfast Motorcycles: Ireland

For kids


Mahindra: India

Mahindra 2 Wheelers Ltd.


Maico: Germany

Maicowerk A.G.
Maico Motorrad- und Fahrzeugfabrik O.&W. Maisch, Pfäffingen 1926 - 1958
Maico-Fahrzeugfabrik GmbH, Pfäffingen 1958 - 1983
Gebr. Maisch Zweiradhandel- und Produktions GmbH, Pfäffingen 1983 - 1986
Maico Vertriebs GmbH (Lorenz Merkle), Nördlingen 1987 - 1995
Maico Motorcycles B.V., De Bitt und Brouwer Motors B.V., Zwartebrock 1995 - 1999

1926年、Otto Maisch と Wilhelm Maisch の兄弟が創業。主にILO (JLO) 製のエンジンを搭載する小型バイクを生産していた。第二次世界大戦終戦の戦時中は軍備品を、戦後僅かな期間は玩具製造に従事していたが、オートバイ需要が急速に高まったこ とを受けてオートバイ生産に復帰する。ILOエンジンは1953年に自社で再設計し、以降エンジンも自社生産となる。

事実上、兄弟は対等なパートナーであった。ただし Wilhelm はナチスの活動を経て社会党員であったことから、時の政府の法律によって経営を支配することができず、Otto が株式の6割を保有していた。

1950年代には、Maicoletta の名称でスクーターの生産を開始した。当時としては大排気量の250ccエンジンを搭載し、4つのフットペダルによる変速機やセルモーターを備えた高性能のスクーターで あった。1952~1958年には、"2-wheels car" と称したフルカウルを纏ったスクーター "Maicomobil" を生産していた。1954~1957年のごく短い期間には"Maicocars"の名称で400~500ccクラスのマイクロカーを生産した。

1957年、Wilhelm が病に倒れ社業を離れる。ほぼ同時期に Wilhelm の子息が Maico に加わり、Hans は開発ライダーとして、Peter は広報担当として、Wilhelm Jr. は技術開発と生産担当として腕を振るった。

1960年代よりオフロード競技に積極的に参加、70年代にはCZやHuskyに並ぶ強豪チームとしてヨーロッパやアメリカで名を馳せた。アメリカでの 販売網を確立し「吊るしで勝てるバイク」として売り上げも好調に推移した。Maico の生産車の3~5割はアメリカで販売されており 500cc クラスのモトクロスでは世界的なリーダーであった。伝統的に広いパワーバンドを持ちハイパワーなエンジンは日本のメーカーも目標とするほどであった。反面、サスペンション の耐久性が乏しくユーザーはしばしば対応に追われたという。それでもオフロード競技の強さに対する信用から Maico の中古は高値で取引されていた。

こうした Maico のウィークポイントは Maico 490 の1983年型モデルの開発・発表において露見する。1981年頃から、日本製バイクはリア・サスペンションにモノ・ショックを採用し始め、Maico も追従を迫られることになる。新規開発には多額の費用が必要であり、Otto は銀行融資を受けようとした。しかしながら Wilhelm の家族が担保をシェアすることを拒否したため資金の確保はならず、深刻な資金不足の中で開発が進んだ。コスト削減のために採用した Corte&Cosso (Italy) 製のショックはモノ・ショック構造に適応せず、Ohlins の技術者からは設計ミスを指摘されるなど開発は混乱した。Otto は新型モデルの発売を1982年内に行うよう、開発等スケジュールを強行した。一方、Wilhelm 子息兄弟の主導で、自社の資金不足を回避するためディーラーに対して45万マルクの前払い金を要求。これにイギリスやオランダのディーラーは反発し、Otto に対して兄弟の解雇を求める騒動に発展、1982年12月の兄弟の解雇につながった。

1982年11月、お披露目走行を終えた 490 はリアが沈み、これ以上使い物にならないかのようなサスペンションの疲弊が確認されていた。Maico はこれを「試作車であり設定が完全でなかった」と弁明したが、実際にはそのまま完成車として発売した。はたして懸念は多くの 490 において現実となり、ジャンプの着地でリア・ショックが壊れる、高速走行からの減速によって変速機が爆発し、リア・ハブが破損するといった症状を頻発。Maico は、膨大なクレームや返品、負傷者からの訴訟の対応に忙殺されることとなった。Otto が深刻な経営難に直面しているそのとき、Wilhelm の子息兄弟はメディアを通じて Maico へのネガティブ・キャンペーンを展開した。このことで Otto は銀行取引を止められ、社内は労働放棄が横行し、Otto の家族が自己資産を売却して会社を維持せざるを得ない状況となっていた。1983年5月10日、ディーラーからの Otto に対する支持も虚しく Maico は破産を宣言した。

破産からほどなくして Wilhelm の子息兄弟は会社を設立し、管財人からわずか300,000マルク(当時の換算で $100,000)で Maico の経営権を取得した。しかしながら、Maico の工場は 490 に関連した保障および訴訟に対応するために大きな借金を抱えており、アメリカの拠点は Otto が所有していた。Wilhelm の子息兄弟はこれら資産を取り戻そうとと画策したが失敗に終わり、結果として両家の訴訟合戦に発展していった。この過程で、490 の一連の問題が Wilhelm Jr. 率いる設計陣の設計ミスに起因していたことが明らかになっていった。

Wilhelm の子息兄弟は、会社を再興するためには、アメリカ市場を取り戻すことが必要と考え、アメリカに進出する。このときアメリカにおける "Maico" の商標権は、Otto が所有するアメリカ拠点にあったため、"M-star" の名称で販売を行った。僅かに製造したモトクロスやエンデューロは、1983年型の Maico を水冷エンジンに改造した焼き直しに過ぎず、メカニズムは旧態然としていた。 "M-star" は1986年までアメリカのモータースポーツに参加したが、広報戦略を怠り、競技では有能な選手を起用することができず、メディアとの敵対的な関係もあって、1年と置かず にその存在は薄れていった。アメリカ以外では "Maico" の商標で販売を行っていたが、その品質は年々評判を落としていった。1986 年には日本車をコピーしたかのようなモデルで起死回生を図ったが、結局 1987年に Wilhelm の子息兄弟らの "Maico" も倒産した。

その後、"Maico" に係る権利は、Lorenz Merkle から、航空機やマウンテンバイクのサスペンションを手掛けるオランダの会社 Rodem BV を経て、Remco Demmer に渡った。1997年にはオランダ国内で "Maico" ブランドのスクーターが販売されたが、これは台湾製スクーターのバッジエンジニアリングであった。1998年には Intermot に大きな規模のブースを設けたが 1999年の時点で倒産、企業活動を停止したようである。例えばイギリスにおいて、1981年には年間1500台の販売実績を持っていたが、1999年には僅か12台が販 売されたのみであった。当時権利を保有していた Brouwer Motors BV は、Maico を再興する計画を持っていたが実現には至らなかった。Maico の商標権は2005年まで Merkle 家に残っていたとされる。

実戦参加には至らなかったが、1983年頃に"Maico 3 stroke"と銘打った変則的な4ストロークエンジンを開発していたことがスクープされている。このエンジンは、シリンダーに吸入する前に2ストロークのようにクランク ケース部に混合気を導いてエア・チャンバーの効果を持たせたものであり、強大な低速トルクを発生したという。一方でガソリン混合気に潤滑油の役割をも担わ せており、6000回転弱以降は急激にパワーダウンするという特性を持っていた。

現在も "Maico" は 3 つの国で製造されており、オープンクラスダートバイクでは Maico のオートバイが参加を続けている。ドイツの Kostler はスペア・パーツから新車を製造し、イギリスの Bill Brown は再生部品から旧型モデルを再生産している。アメリカの Ronnie Smith は "US Maico" の名称でスペア・パーツの製造を続けた。また 2008 年モデルの ATK Intimidator は、Maico の 2ストローク 700cc エンジンを搭載していたことが知られている。


Malaguti: Italy

スクーターメーカーMALAGUTI。


Manco Products, Incorporated: USA

Bodied Kars, Mini-bikes, Fun Karts, The Deuce


Manxman: UK


March: Japan

march.

Electric scooters.

2011年9月、初のモデルとなる march 01CT AID を発表。


Martin Bros.: USA

Martin Bros. (Martin Brothers)

Custom bikes.


Martin Conquest: UK

Martin Conquest.

The Conquest is the world's first series-manufactured high performance motorcycle that can be driven from a wheelchair.


Marusho: Japan

丸正自動車製造株式会社 (Marusho Motor Co., Ltd.)

本田宗一郎が設立したアート商会浜松支店の従業員(四番弟子)であった伊藤正が独立、1940年に自動車修理工場と自動車部品販売の会社「丸正商会」を 創業した。ちなみに、伊藤の独立のきっかけは、夜半までかかった修理作業中に、芸者遊びから酔って帰った本田宗一郎が絡み、いきなり伊藤を蹴り飛ばしたこ とであり、いつまでも小僧扱いされることに対して堪忍袋の緒が切れたという。

その後、丸正商会は、国鉄の浜松工機部から買収を持ちかけられる。伊藤は同部の管理職着任を条件にこれに応じたが、国鉄は伊藤を採用しなかった。業を煮 やした伊藤は、本田宗一郎から新たに興した「東海精機」への入社を促され、課長職と株主を条件に入社した(国鉄からの売却益で大株主となり、以後も長く株 主であった)。

1946年に伊藤は東海精機を退職。本田宗一郎が設立した「本田技術研究所」の眼と鼻の先に自動車修理工場を立ち上げ、1948年に自動車ボディーの製 作業として「丸正商会」を再興した。

同社のエンジン技術者であった溝渕定 (Sadamu MIZOBUCHI) は、ホンダの技術者となった河島喜好(本田技研工業二代目社長)の同級生であり、河島の活躍を知って伊藤にオートバイ製造を進言する。伊藤は本田への対抗心からこれを応諾 し、最初のモデル「タイガー号」を6台生産した。当時はチェーンの耐久性に対する不安があり、タイガー号はベルトドライブを採用した。これが瞬く間に買い 手がついたことで、本格的にオートバイ製造への進出を決断する。

本格進出後初のモデル「ライラックML号」は、シャフトドライブを採用した。これは、タイガー号でベルトドライブのベルトの伸びの問題があったこと、ま た、ホンダとの違いを際立たせるためであった。シャフトドライブにはべべルギアの生産が必要であり歯車加工の業者を探す必要に迫られたが、これに協力した のが河島喜好であったという。

ホンダ・ドリーム発売から1年後の1952年、ドリームと同じ OHV エンジンを採用した「ライラック KD 号」を発表。1953年3月の名古屋 TT レース(中部地区のオートバイメーカー 19 社が、それぞれ 3 台のバイクを出場させるメーカー対抗形式のレース)において好成績をおさめた。何より、他車がチェーン脱落やパンクのトラブルに見舞われる中、シャフトドライブはタイヤ交 換の簡便さもあり、その優位性を知らしめることとなった。追加モデル KE と共に、ライラックは「チェーンの無いオートバイ」のキャッチフレーズで有名となる。

同じ 1953 年 3 月、本社(営業拠点)を東京に移転。増産によって税務署からの抜き打ちの立入りが頻繁になり、伊藤が本田宗一郎に相談した際に「東京は大企業が多く、『浜松の大企業』が移 転したところで、税務署は見向く暇もない」というアドバイスが決め手となったという。

1953 年 4 月、ベビーライラック号を発表する。ヘッドライト、燃料タンク、ハンドルを一体としたユニークなデザインと女性でも扱いやすい機構を採用し、ヒット商品となった。前年ホン ダが発売した補助エンジン「F 型カブ」が、取り付けた自転車のスポークが折れたりチェーンが伸びたりという問題を抱えていたことを知り、自転車より小さな完成車を目指して開発したものである。

昭和 30 年開催の浅間火山レースでは、19 のメーカーが参戦する中、有力と目されたホンダ・ドリームを破って優勝、同社の技術力を世に知らしめた。

しかしながら、以降は大量販売を志向し、広報活動に経費を傾注し始める。伊藤は部品生産は外注した方が簡単であるという考えから、自社内での技術蓄積は 遅れ気味となる。溝淵らは技術者教育の必要性を感じて、後に東大の生産技術研究所への研修制度を設けたほどであった(これも1期の研修が終わるころには、 後述の倒産の最中であった)。

1959 年発売の「ニューベビー」は、ベビーライラックの後継として発売されたが、ベビーライラックより小型のボディが華奢であると不評を買い、わずか 1 年で生産を中止する。この頃から経営は不調に転じ、メインバンクの大和銀行はスズキとの提携を持ちかけるが、本田の弟子であった伊藤は、忠義としてこの打診を断ったことで 厳しい金融引き締めを迫られた。

経営難の中にあって、なお高性能車を送り出していた丸正は、1961 年、ライラックモペット AS71 を発表する。中空のモノコックフレーム内にエンジンをおさめ、フェンダー、サイドカバーともプラスチック製としたことで、車体重量はわずか 10.5kg という超軽量モデルであった。しかも、Vベルト、自動変速機、駆動ギアを一体のケ-スにまとめて、このケースで後輪を懸架させるという、現在のスクーター において常識的な機構の先駆的なモデルでもあった。

三菱重工は AS71 に対して、同社のブランドであるシルバービジョンの小排気量クラスモデルとして注目し、販売権の譲渡を申し出た。丸正は三菱の販売力に期待して、高額の設備投資を行うこと でこれに応じた。三菱は「ビジョン・ゲールペット」の名称で AS71 を販売した。ところが三菱は並行してスクーター事業から撤退し自動車製造に転ずる方針を進めていた。「ビジョン・ゲールペット」はその時期のつなぎのモデルに過ぎず、提携 は半年ともたず破棄された。三菱に販売権を譲る段階で、丸正の販売店には保証金も担保も返却して契約を満了していたため、販売ルートは閉ざされていた。

末期的な状況の中、今度は、当時実質的な経営を主導していた溝渕が、改めてスズキに救済を打診する。しかしながら溝渕を懇意にしていたスズキも経営が思 わしいといえる状況ではなく、この打診を拒まざるをえなかった。

結果、「ホンダよりも技術力に勝る」と称された丸正自動車は 17 億円の負債を抱え、1961 年 10 月 12 日に倒産した。このとき伊藤は、本田宗一郎のもとに出向き再建協力を求めた。丸正は、ホンダの下請けとなることを前提に和議を申請し認められた。だが、伊藤はホンダの下請 けを担うことなく新型車の開発に邁進し、本田もこれを見て見ぬふりをしていた。1962年、東京モーターショーにおいて「ライラック R92」を発表。500cc の大排気量車を、高速道路網が発達しているアメリカに輸出することに活路を見出した。現地販売代理店として契約したのは、ロサンゼルスで「松すし」という寿司屋を経営する 日本人であった。

ところが、債権者らはアメリカへの渡航費用でさえ借金返済に充てるべきと督促を繰り返し、アメリカでは仲介の外交官が高額な手数料を要求する事態となっ た。丸正は再建中であり、前金を納めなければ資材の購入もできなかったこと、挙句には債権者が丸正の再建を無理とする風評を流すまでに至り、伊藤は開発を 断念、1967 年に会社経営を債権者代表の手に委ね、自身は廃業した。

溝渕は、その後、ブリジストンサイクル工業に入社。 ブリジストンを退社後は台湾に渡り、同国のオートバイ産業の礎を築いた。 帰国後、浜松餃子ブームのきっかけとなる超小型餃子製造機を開発。2000年7月には、株式会社テクノマイスを設立。現在に至る。

伊藤正は、2005年に92歳で逝去した。


Masston: China

Electric Scooters, Electric Bikes, Gas Scooters and Mini bikes.


Max: USA

Recreative Industries Inc., MaxATVs are Amphibious Six-Wheel Drive All-Terrain Vehicles.


Maximum MetalWorks: USA

Maximum MetalWorks

Custom motorcycle frames.


Maxus: China

Maxus Industrial Group (China) Limited.


MBK: France

Yamaha Group


Mecatwin: France

Cafe-racer conversion kits powered by Triumph and Harley-Davidson 


mDESIGN: Germany --- Design studio

Designing of motorbikes.


Mecatecno: Spain

Derbiを退職した3人の技術者によって、1983年に創業。いくつかのモデルでMotori Moriniエンジンを採用しながら1989年まで営業した。


Meco: Austria

MECO World GmbH, a group company of the MS Design Auto-Tuning GmbH

Electric Scooters.


Mega Machines: Germany

German made V8 Motorcycles


Megelli: UK

Megelli motorcycles

2006年6月創業の新興メーカー。
2005年4月に市場調査を開始し、同年6月にデザインを開始。2006年1月より開発を進め、2007年10月、125ccのモタード、ネイキッド、お よびスポーツタイプの3種がEECの認可を得る。同年11月のミラノショーにて初披露、翌12月NECモーターサイクルショーで、イギリスに初めて姿を現 した。


Meguro: Japan

目黒製作所。


Meihatsu: Japan

川崎明発工業株式会社


Mei Tian: China

Shanghai Meitian Motorcycle Co., Ltd.


Merch: USA

Merch Motorcycles


Merlin: Spain

1989年、GASGASと合併。


Metry Custom Cycles: USA


Midual:  France

新興メーカー。


Midwest Choppers: USA


Miller Industries: USA


Minnano-bike: Japan

Minnano-bike ("みんなのバイク" means "everybody's motorcycle"), a brand of the Uni auto.

2009年末、新車の小型のギア付バイクを探したときに、開発者自身が欲しいバイクがなかったことが開発のきっかけとなった。約1年に渡り、各所から理 想に近い車両をサンプル輸入して試乗を重ね、良い製品を探した中で良いコンポーネントを組み合わせたモデルを構想した。2011年1月に発表。部品調達、 生産は中国広州で行い、部品調達、生産管理、アセンブリおよび輸入は香港で行っている。VS-125 のフレームは Giantco 製であるとの情報がある。

モデル名は「いろいろ格好いい名前を考えたが、面倒になり」、「みんなのバイク」になったという。


Minneapolis Custom Cycle: USA


Mirage Motorcycles Inc.: Canada


Mission: USA

Mission Motor Company.

Mission R, electric super-bike.


Mitsubishi: Japan

新三菱重工業株式会社。シルバーピジョンなど。


Miyata: Japan

宮田製作所。現在は自転車を製造。


MODENAS: Malaysia

モデナス。小型バイクメーカー


MOGO: UK


Momos: Malaysia

Mofaz Motosikal Sdn Bhd.

ATV


Mondial: Italy

FB-Mòndial Casa Motociclistica (Mondial Motorcycle House) / Mondial Moto S.p.a. / Company V.DUE SRL

 モンディアル。
 1929年ミラノ近郊の貴族、Carlo, Luigi, Ettore そして Count Giuseppe の Boselli 伯爵兄弟が自動車メーカー"FB"を創業。"FB" は創業者兄弟を表す "F … Fratelli (brother)" および "B…Boselli" に由来する。当初は、実用的なオートバイと電動三輪車そしてデリバリーバンを製造していた。末弟 Giuseppe は当初からオートバイに興味を示し 3 人の兄にオートバイ事業の強化を提案していたが、兄たちはオートバイ産業に確信が持てないでいた。会社の規模は小さくなかったが、軍需産業を任せられるだけのネームバ リューはなく、第二次世界大戦中は、Benelli, Gilera そして Guzzi といったメーカーに仕事が渡って行った。

 1949年、 Giuseppe の主導で FB の資産を継承し、オートバイメーカー "FB-Mòndial Casa Motociclistica" を設立。エンジニアの Alfonso Drusiani の協力を得て 125cc 単気筒 DOHCエンジンを開発し、レースに積極的に関与する。また小排気量ながら手作業による高品質のスポーツバイクを生産した。
 創業直後の世界選手権を Drusiani が開発した自社製125cc OHC 2気筒エンジンで戦い制覇するなど数々の栄光を誇った。1954年、後にDucatiのデザイナーとなる Fabio Taglioni が加入する。この年のF1-GPにおける Mercedes のエンジン機構に触発され、Ducati より以前に desmodromic 機構のエンジンを開発したが、これはレースにも市販車にも採用することはなかった。

 1957年、125ccと250ccのGran Prixを制覇し、両クラス併せての GP 制覇は実に10度目となった。本田宗一郎は自社のレース仕様車の開発を進めるにあたって Mondial を研究することを考え、Mondial にレース仕様車の購入を依頼する。Mondial はこれに応じて 125cc のGPマシンを提供した。このバイクは、もてぎのコレクションホールにおいて展示されている。
 ただし、レースの栄光に対して経営は順調とは言えなかった。自社のラインナップは高まり出した大排気量オートバイの需要に対応できず、レース参戦コスト も高騰し世界選手権を撤退せざるを得ない状況であった。Giuseppe にとってオートバイはこの上ない「貴族の趣味」であり、その資金はミラノに所有する巨大な地所が支えていた。結局 1957年末には Boselli 兄弟が揃って職を退く。1960年のモデルを最後に自社製エンジンの製造を中止し、以降は他社のエンジンを採用した。
 その後も売り上げの下落を止めることはできず、1979年に事業終了。
 その後1987年にはヴィラ兄弟が経営権を取得するがごくわずかな台数の125cc および 600ccのモデルを生産したのみで 1989年に事業を終えている。
 1992年には、Boselli 一族の Pierluigi Borselli の管理下となり、KTM単気筒エンジン使うレーサーを制作した。

 1999年、世界第4位の印刷資材メーカー、Lastra S.p.A の経営者 Roberto Ziletti が Mondial の復活を計画し、Pierluigi Borselli と合意。商標の使用権を得る。過去に Mondial が Honda に対してレース仕様車を提供した縁から Honda にエンジンの供給を依頼。2000年には ホンダ・VTR1000 SP-1/2 のエンジンを搭載したスポーツバイク Piega 1000 の発表で復活を遂げた。ただし生産には遅れが生じ、最初に顧客に Piega が渡ったのは 2002年11月 のことである。また、Ziletti は Piega をベースとして国内の Superbike シリーズに参戦するが、顕著な成果を残すことはなかった。
 その後 Roberto Ziletti は、父親の逝去を期に Lastra の社長に就任し、Mondial の経営に集中できなくなる。さらに Lastra が三菱化学から子会社 Western Litho Plate and Supply Co. を完全買収することになった。2004年には、Leandro Ghelfi にマネージメントを任せていたが、既にMondial に1100万ユーロを超える資金をつぎ込んでいたため、Ziletti はスイスのメーカに Mondial を委託することを図る。しかしながら交渉は立ち消えとなり、結果として Mondial の工場は35台の Piega の完成車とともに裁判所に差し押さえられ、Mondial は破産した。

 2005年3月には、アメリカでディーラーを経営する Andrew Wright が、権利を取得して自らの会社でレース向けに Mondial を販売することを公言していた。しかしながら裁判所は競売を経て 2005年7月27日に Piero Caronni に Mondial  を売却した。このとき競売にかかったのは Mondial の商標権の50% (もう 50% は Boselli家が所有する)、 施設、Piega の在庫、株式である。また Piero Caronni は 2001年に破産した Bimota の経営権を獲得し、 "Company V.DUE SRL"の名称で Bimota 500Vdue を取引していた人物である。
 2006年、Piero Caronni 体制の下、Leandro Ghelfi とのパートナーシップを維持し会社は再興した。


MONDIAL S.A.: Argentina


Montesa: Spain

モンテッサ(Montesa / Montesa Honda S.A.)


Monto: India

Monto Motors Ltd. 

Monto has been established by Pacco Group of Companies in the year 1997-98.


Moriwaki: Japan

モリワキエンジニアリング


Motobecane: France


Motobi: Italy

モトビ。1950 - 1977

新生モトビは、スクーター、ATV、バギーなどを生産するだけでなく、電動の自転車やスクーター等の新技術の開発にも携わっていく。オーストリアの Michael Leeb Trading GmbH が Demharter GmbH とパートナーを組み、モトビブランドをマーケットに再構築する。2010年、JiR Moto2チームとのコラボレーションによって。

ドイツ、オーストリア、イタリアに600店舗以上のディーラー網を揃え、2014 年までには、オランダ、ベルギー、フランス、イギリスにも進出する予定。


MotoCzysz: USA

創業者は Michael Czysz である。Czysz は、AMA 250cc Grand Prix および Formula Xtreme で活躍したレーサーであり、建築デザイン会社 Architropolis を成功させた建築家でもある。

コンストラクタとして最初に話題になったのは 2005 年初頭である。このときは故 John Britten の仕事に端を発して、オリジナル・デザインのモーターサイクル MotoCzysz C1 を MotoGP および Superbike 向けに販売する計画がクローズアップされた。2006年、それまで成功を収めていた自身の事業のすべてを売却し、全財産を投じて MotoCzysz を設立した。

C1 のプロジェクトは、レギュレーションの変更や資金難などの影響で、大きな実績を残すことはできなかったが、2009 年のマン島 TTXGP に電動モーターサイクル E1pc を出場させた。E1pc は C1 の技術を流用しながら、リチウムイオン電池を搭載し、最高速度 120mph を標榜した。2009 年 TTXGP では完走はならなかったが、2010 年 6 月 10 日、マン島 TT の TTゼロ(ゼロエミッション)クラスにおいて、マウンテンコースを23分22秒89で走破し優勝を飾った。このときの平均速度は 96.820mph (約155km/h) を記録した。


Motograziella: Germany


Moto Guzzi: Italy

モトグッチ

 


MOTOM: Italy

MOTOM Italia SpA

現在、MOTOM の商標は、スクーターを販売する MOTOM Italia SpA と、Saverio Bettinelli の下で生産される超小型スクーター SAM シリーズを販売する MONDIAL MOTO S.r.l. が使用していることが確認されている。

MOTOM Italia SpA は、"LAMBRETTA" の商標権を取得していると見られ、Motom ブランドのほかに、同社製品スクーターをベースとした1モデルを "Lambretta" の名称で販売している。


Motomex: Mexico

Grupo Motomex.

Izuka (original motorcycle brand), Delta (Equipos Industriales), and importer of Kawasaki, Peugeot, Kymco, Bajaj, Hartford, and Dinli


Moto Martin: France


Moto Morini: Italy

Moto Morini SpA モト・モリーニ

 1914年、わずか16歳であったオートバイ修理工 Alfonso Morini が独立、折しも第一次世界大戦開戦直前であり、戦時中に駐屯していたオートバイ部隊の仕事を請け負う。その仕事ぶりを評価した Mario Mazzetti はレーシングマシンの製作を依頼し、レーサーとして Morini を雇用する。マシンは二人の頭文字と排気量からMM125と名付けられ、多くのレースでいくつかの世界記録をはじめとする好成績を残した。

 1937年、MMから独立し、Moto Morini を創業。350ccと500ccのオート三輪の製造を始めた。しかし、第二次世界大戦が勃発すると、Moto Morini の工場は航空機の部品製造を請け負うこととなる。1943年、工場は爆撃の被害に会った。
 1946年、モーターサイクル製造を開始する。ここでも、モータースポーツにおいて、1960年頃までに多くの実績を残した。
 1969年6月、Alfonso Morini が71歳で逝去。娘のガブリエラ・モリーニが跡を継ぎ、1970年には元フェラーリのFranco Lambertiniが加入する。
 Franco Lambertini は1970年代初頭にV型2気筒350ccエンジンを設計する。モジュール式の設計のため単気筒への転用も容易であり、その後、125ccおよび250ccの単気筒、そし て500ccのV型2気筒に発展。その基本設計を10年以上に渡って継承した。

 1980年代に入ると、販売台数減少と激しい労働争議に伴って業績が悪化した。Harley-Davidson は、Moto Morini のV型エンジンに興味を持ち、小排気量モデルでの使用を検討したが、Moto Morini の財政問題が障壁となり頓挫した。1987年2月18日、ガブリエラ・モリーニは、工場を Cagiva に売却し、経営から退いた。

 Cagivaの傘下となって以降、Moto Morini は、旧来のモデルの改良版を送り出すに留まる。Cagiva の支援も充分なものとはいえず、Franco Lambertini が新たに開発したエンジンも Cagiva が興味を示さなかったことから、Lambertini は Gilera に移籍してしまった。1993年、一部工場の閉鎖を決定。1996年、Cagiva は Ducati と共に、Moto Morini の名称の使用権をTexas Pacific Group (現 TPG Capital) に売却した。

 Texas Pacific Group には、Moto Morini を復活させるための計画はなく、ブランドは事実上 Ducati が所有する形となった。1999年、Morini Franco Motori S.p.A が名称使用権を取得する。Morini Franco Motori は、モーターサイクル向け小型エンジンメーカーであり、Alfonso Morini の甥 Franco が1954年に創業した企業である。2003年、Morini 一族と Gianni Berti の合弁で、Moto Morini SpA として再興。2004年のBologna Motor ShowにCorsaro 1200を出品し、活動を再開した。


MotoMorphic: USA

MotoMorphic.

JaFM, powered by Rotax V990 fuel injected 997.8 cc dual overhead cam.

2008年から続く Jim Davis のプロジェクト。


Motoped: USA

The Motoped is a motorized bicycle used a 49cc to 155cc 4-stroke horizontal OHV motor and downhill mountain bike parts mounted to a custom frame and swing arm.

This project was successfully the kickstarter funded on December 23, 2013.


Motorcycle China: China


Motorcycle Export: China

ATVs, GO KARTs, SAND BUGGYs and DUNE BUGGYs


Motorized Electric Scooters: USA

Motorized Electric Scooters


Motor Union Italia : Italy

モーターユニオン。バイク・スクーター


Motus: USA

BMC, LLC. Motus is a registered trademark of Birmingham Motorcycle Co., LLC.

Motus MST-01 is a vision of an American Sport Tourer.


Morbidelli: Italy

モルビデリ 


Motorhispania: Spain

MH MOTORCYCLES


MP Korado: Czech Republic

MP KORADO CZ, s.r.o.

1994年創業。"Manet"の名でモペッドを生産する。
近年は、自社オリジナルのスクーターのほか、Hartfordの代理店を担う。
なお"MP"とは"Motor Puch"の略称。


MTT: USA

Marine Turbine Tec.


Muench: Germany

60年代「史上最も高価でパワフル」と言われたミュンヒ マンムート。2000ccのエンジンを得て復活。

2010年現在は EV バイク による TTE-1 レースに参戦している。


MULE MOTORCYCLES: USA

A Custom Motorcycle Builder Harley-Davidson Replicas - New URL.


MuZ / MZ: Germany

MuZ / MZ --- Motorrad und Zweiradwerk GmbH

1907年、2ストロークエンジンの製造を開始。1922年、初のモーターサイクルを発売、これが DKW である。DKWの四輪部門は後に Auto-Union に参加し、Audi となっている。

第2次世界大戦の影響によってドイツが東西に分裂した後、DKWは東ドイツ圏内のメーカーとなり、大戦前に開発していた RT125 の生産を行った。東ドイツにおいては代表的な工業メーカーに成長し、ドイツの東西統一後の1992年からMZ社として新たに活動することとなった。なお、1992年から 1999年の間は MuZ と呼ばれていた。


MV Agusta (Motorcycle): Italy

MVアグスタ。
  1920年、Giovanni Agustaが軍用及び民間飛行機の製造及びメンテナンスを行なうConstruzioni Aeromautiche Giovanni Agusta社を設立。27年、イタリアで初のスポーツタイプ単葉機開発に成功した。しかしGiovanniが同年死去。事業を、妻であるJosefena Agustaが継承する。
 1943年、98cc、2サイクル単気筒エンジンを搭載したモペッドでモーターサイクルの開発を開始。

 1945年、第二次世界大戦の終結によって、敗戦国となったイタリアは航空機の生産を禁止された。そこで Giovanni の子息 Domnioco は、モペッド製造部門を子会社として分離独立、MV Agusta社を設立した。MVとはMeccanica(工業) Vergheera(地名) の頭文字を表す。
 48年、ロードレース活動を開始。後に通算3027勝、うちWGPでは270勝を獲得した。特に56年は、125cc、250cc、500ccで、58 年には125cc、250cc、350cc、500cc各クラスにおいてワールドチャンピオンを獲得。その名声を不動のものとした。
 1971年、Domniocoが死去、弟の Corado が継承する。1976年、社業を航空機に一本化する方針を打ち出し、オートバイ部門とレース部門を解体すると発表、レース活動を停止する。1977年には、モーターサイク ルの生産ラインを停止した。

 97年、Cagiva を経営する Claudio Castiglioni は、理想とする「世界最高のパフォーマンス」を持つマシンの具現化として、「大排気量、4シリンダーエンジン搭載マシン」の開発を進める中で MV Agusta ブランドを獲得。Ferrari からの協力を得て Cagiva Reserch Center においてMV Agustaモデルの開発に着手し、F4 Serie Oroをミラノ国際ショーで発表。MV Agustaの再興は全世界で反響を呼び、98年にこれを限定生産、市場に復活した。
 99年、Cagiva S.p.A は、経営戦略上の理由から社名をMV Agusta motorと変更。2001年7月24日、Piaggioから資本の20%を受入れる契約に同意した。2004年、Proton が 7000万ユーロで買収。2005年、地元イタリアの GEVI に1ユーロで売却される。その後も経営不振からは脱却できず、2007年7月には Hasqvarna を BMW に売却。そして2008年7月11日、Harley-Davidson が MV Agusta Group 本体 を、1億900万ドルでの買収することに合意した。


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