その運転を楽めることが条件か?
高速コーナーリング、パニックブレーキ、およそ楽しむことの出来ない場面にスポーツを感じる人もいる。では、これをドライバーの意のままに操れることが条件か?
そうは言うものの、機械は意思など持っていないのだ。人間が機械に合わせるしかない。乗り手にとっての「スポーツ」とは、機械の潜在能力を引き出しきることに他ならないのではないか。
Zの父、片山豊氏曰く「乗り手がスポーツカーとして扱えばスポーツカー」という。ただし、これは豊富な経験に基づく達観であり、我々が軽々しく口にできる言葉ではないだろう。現に、片山氏がプロデュースしたスポーツカーは、誰もがそう認めるスタイルを持つ
S30
フェアレディZ なのである。
こうして、考えられる素養を全て包含しようとすると、「トータルバランス」、「テイスト」、「ロマン」などという、有耶無耶な、およそ生産性の無い結論に落とし込まれていく。スポーツカーの議論とは得てしてそういうもののようだ。これらの言葉を否定はしないが、思考停止のためのキーワードとして体良く使われるのなら話は別である。確かに、ひとりひとり異なるスポーツカーの概念が宿っている。そのものさしに照らし合わせて、ある車がスポーツカーであるかどうかを評価しているだろう。ところがそれは、スポーツカーの条件ではなく、文化を背景とした(一部のまやかしを含む)個々の哲学に過ぎない。
なるべく主観を交えずに考えたい。
とどのつまり「Quickな車」はスポーツカーのはずである。A地点からB地点への移動がQuickであるということについては、A-B間の距離の認識も、街から街へなり、コーナーのポイント間なり、何にスポーツ性を求めるかによって人さまざまである。
とはいえ、どのみち「Quick」であるためには、相応の運動能力が必要だ。そこで、「Man」に対して「Sports-man」という言葉が存在するように、「Car」に対して「Sports-car」という位置づけを定めて考えてみる。車という機械の使用感を評価しようというのではなく、機械そのものを評価しようということである。機械の潜在能力が高ければ、ドライバーの技術に関わらずFun
to driveを実現できるだろうし、乗らずともその潜在能力の高さを期待させる車は、スポーツカーと呼べるだろう。
筆者は、強情極まりないバリバリの理系人間である。大抵のことは数字でカタがつくと思っていて、ハッキリ言ってタチが悪い。
「Quick」であるということは、仕事の効率の良さを示す。どんな車であれ、力を生むのはエンジンであり、力が伝わる路面との接点はタイヤのみであり、それらを支えるのはフレームであることに変わりはない。Fun
to driveというキーワードは、機械の提供する性能に、人間が負担なく対応できるかどうかだとすれば、これも、おおよそ人間工学の世界で語れるだろう。時代とともに変わるのは、環境であり、物理的な特性は不変のはずである。
決してこのテーマを通じて、物事を斜めに見ようというのではない。例えば筆者は、コルベットをスポーツカーとして認識しているが、過去のモデルにおいて、パワーばかり大きくて、直線が速いだけの車はスポーツカーではないという意見も聞こえる。そのような、まやかしめいたものを払拭していきたい。スポーツカーのデザインには、その形を成すだけの理由があるのだということを、数字の側面から考察したいと考えている。 これからしばらくは、このテーマを書くときは、物理の教科書とにらめっこである。 |